こんにちは。平穏堂院長の田上俊和です。
本日の「疲れにくくなる暮らし方」は
「きれい・きたないは主観によると気づくと疲れにくくなる」です。
前提:
当記事での「きれい」「きたない」は衛生面や片付けのそれであり、
芸術や工芸品の「美醜」とは異なります。
(以下本文)
人は事物を「きれい」と「きたない」に二元化することがあります。
その二元化する目的は自分の安心・安全を簡便に確保するためです。
端的には、危険だと感じれば「きたない」と感じ、安心を感じれば「きれい」だと感じます。
ただ、その感覚は人それぞれの価値観、つまり主観によります。
そのため、他人の「きれい」「きたない」の感覚に対し、自分の価値観によって、文句をつけると、他人の価値観への攻撃に他ならないため、他人からの反感を買います。
他人からの反感を買えば反撃を受け、お互いに傷つけあい、傷の回復のために気力体力を用いますから疲れやすくなります。
逆に「きれい」「きたない」について他人の感覚に文句をつけず、自分に影響する範囲でのみ十分な「きれいさ」を確保するようにすると、他人から反感を受けにくくなりますから、疲れにくくなります。
従って「きれい・きたないは主観によると気づくと疲れにくくなる」となります。
次回(5/27)は、「苦しみの種を自分で蒔くのを止めると疲れにくくなる」です。
○「きれいさ」を求める範囲について私見
私見ですが、自分に影響する範囲でのみ「きれいさ」を確保すると、他人から文句をつけられても
「貴方にも関わりますが、私に強く関わる事物ですので」と、相手の論拠を封じたうえで反論できる
ため、他人と争わずに「きれいさ」を、ひいては「安心」を確保できると私は考えます。
「安心」を確保できれば、安全確保のために気を張りつづけずに済みますから疲れにくくなります。
また、これも私見ですが「きれい」「きたない」の感覚は健康雑誌などでいうところの
「デトックス」や「からだの解毒」などが特集される現状にも関わっているのではないかと考えます。
人が無事に生きている以上、その体液(含む血液)に「きれい」も「きたない」もありません。
つまり、体調が少々悪い程度では「解毒」は不要です。からだが元々持っている恒常性維持機能で
からだの安全が維持されているからです。
逆にいえば無事に生きていなければ、つまり「生死の境」にあれば「解毒」が必要になります。
言い換えれば、からだの恒常性維持機能が機能不全を起こし、今日明日にも死ぬような状況に
なって初めて「解毒」が必要となります。
そんな明日をも知れぬときに食事や何かで悠長に「デトックス」だの「からだの解毒」だの
言っている暇は無い、と私は考えます。
であるのに、多くの健康雑誌や新聞の健康記事で「デトックス」や「からだの解毒」が特集される
のは何故か。私が考えるに、世の人たちはいまの自分の健康に「不安」や「危険」を抱えていて、
その感情が高じて、実際には不要な「解毒」を行うことで、代償的に「不安」や「危険」を解消
しようとしているのではないでしょうか。
もし、この仮説が正しいのであれば、私は「解毒」ではなく他の技で、世の人々の「不安」や
「危険」といった感情を解消できればと考えます。
以上
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