こんにちは。平穏堂院長の田上俊和です。
本日の「疲れにくくなる暮らし方」は
「データを元にした主張は主観的であることに気付くと疲れにくくなる」です。
人は何か主張を行うとき、他者への説得力を持たせるため、客観的な事実である「データ」を
用いることがあります。
ですが、同じデータ群を用いるにしても、主張者それぞれのデータ抽出方法(※1)、あるいは
解釈の違い(※2)があるため、データは主張に対して主観的あるいは恣意的に用いられます。
つまり『客観的な事実であるデータを使っても主張は主観的になる』のは自明です。
そのことに気付かず、客観的なデータを使っていれば主張も客観的で無謬であると考えてしまうと
その主張に誤りがあったとき、その主張を信じていた自分を捨てることができずに誤り続ける可能性が
高くなります。誤り続ければ、回復が必要な分、気力体力を用いるため、疲れやすくなります。
主張は必ず主観的になると認識できていれば、いかなる主張に接しても懐疑的(※3)になり、
常に情報の裏をとるように動く習慣がつきます。情報の裏を取るように動いていれば、
主張の誤りに気付きやすくなり、既に主張に則った行動を行っていても、直ぐに対処できる可能性が
高くなり、固執せずにすみます。そうすれば気力体力を無駄に使わずに済むため、疲れにくくなります。
従って「データを元にした主張は主観的であることに気付くと疲れにくくなる」となります。
次回(4/19)は、「所属共同体の認識を状況に応じて切り替えられると疲れにくくなる」です。
(※1) 抽出方法の違い
自説に有利なデータのみを抜き出すか、すべてのデータを等しく用いるか、などで
大きく違ってきます。
なお、科学者は、得られたデータの全てを等しく用い、自らの仮説を検証し、不備があれば
その仮説を訂正します。
疑似科学者は、自分の主張に沿ったデータのみをつまみ食いします。言い換えると彼らは
『データは自説を補強する場合のみ存在を許される』という世界観を選択しています。
そのため、反証データが存在していても無視し、自説を訂正することがありません。
つまり、自説に対し懐疑的でなく盲信する人間は科学者ではなく、疑似科学者です。
(※2) 解釈の違い
その人が選択している世界観によって、同じデータに対する見方が異なるということです。
例えば「○○という症状が100人のうち50人に現れた」というデータに対し
『悲観的な世界観』を選んでいるヒトは50人に”も現れた”、と解釈しますし、
『楽観的な世界観』を選んでいるヒトは50人に”しか現れなかった”、と解釈します。
(※3) 私見ですが、懐疑的になりすぎて疑心暗鬼になるのは行き過ぎだと感じます。
以上
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