こんにちは。平穏堂院長の田上俊和です。
本日の「疲れにくくなる暮らし方」は
「『こころ』があって『わざ』があることに気付くと疲れにくくなる」です。
大前提:人は、無駄に気力体力を消費すると、目的を持って気力体力を消費するときに比べ疲れる。
小前提1:人は、無目的に「わざ」をふるっても何も果たせず、無駄に気力体力を消費する。
小前提2:人は、目的(「こころ」)を具現化するために「わざ」を作り、それをふるう。
「わざ」に込められた「こころ」を知らなければ「わざ」の本当の使い方は理解できない。
小前提1と2、大前提から、人は、目的(「こころ」)を持って「わざ」をふるうときに比べ、
目的(「こころ」)を持たず「わざ」をふるうと疲れる、となります。
このことから、「わざ」が単独であるのではなく、その「わざ」が作られた目的があることに気付くと、
目的(「こころ」)を持って「わざ」をふるえるようになるため、疲れにくくなる、となります。
従って「『こころ』があって『わざ』があることに気付くと疲れにくくなる」となります。
次回(9/29)は、「『不得手だからこそ訓練する』と疲れにくくなる」です。
○心技体の順番についての私見
私は、心技体の順番について、以下のように考えております。
1) 人は、「ある目的を為し遂げたい」とき、「こころ」(心)を持つ。
2) 人は、その「こころ」を実現させるために「わざ」(技)を作る。
3) 人は、その「わざ」をふるうに足る「からだ」(体)を練り上げます。
従って、何がしかの流儀を学ぶ場合、先ずはその流儀が目指す終着点である「こころ」を
学ぶことから始め、次にその「こころ」を具現化するための手段として「わざ」を学び、
その「わざ」をふるうに足る「からだ」を作っていくことになると私は考えます。
言い換えれば、「こころ」を知らずして「わざ」だけを学ぶのは無意味であり、
さらにいえば本人にとっても周囲にとっても危険である、ということになります。
その考えを推し進めると、逆に「こころ」さえ学べば、それを具現化する「わざ」を自分で
考えだすことも可能であることが導出できます。
ただ、長く続いた流儀であれば、伝わる「わざ」は複数の才能ある人間によって磨かれていると
思われるため、まずは伝わる「わざ」を学び、それからさらに自分の解釈を加えていくのが
現実的だと私は考えます。
以上
コメントをお書きください