人の許容量には差があることを知ると疲れにくくなる

こんにちは。平穏堂院長の田上俊和です。

本日の「疲れにくくなる暮らし方」は

「人の許容量には差があることを知ると疲れにくくなる」です。

大前提:人は、自分の思い通りにいかないとストレスを感じ、その結果疲れる。

小前提1:人が、各種の圧力・刺激に耐えられる量(以下、許容量)には個人差がある。

小前提2:人は、他人の許容量を、自分の知識と経験で推量する。

小前提3:人は、許容量の平均値を、自分の知識と経験で作り出します。

 

小前提2と3より、人は、他人の許容量、および、

他人が「許容すべき平均値」を自分の知識と経験から推し量る場合があります。

そして、他人の(見かけ上の)許容量が、自分が考える「平均値」より「小さい」と感じた場合、

「まだ余裕がある”はず”、だから”頑張れ”よ」と「強制」することがあります。

ですが、小前提1より、許容量は個人差があり、「頑張ることを強制した側」(以下、強制側)が

考える「平均値」より、「頑張る」ことを強制された側(以下、被強制側)の許容量は、

小さい場合もあれば大きい場合もあります。

小さい場合、被強制側は「頑張れない」ため、その結果、強制側の思い通りにはならず、

大前提から、強制側は疲れる、となります。


つまり「人の許容量には差があることを知り」「自分の考える平均値でなく」

「それぞれの人の許容量を確かめ」「その許容量の大きさに従って物事を進める」、

言い換えれば「自分と他人は別人であることを知り、自分の価値観を他人に強制しない」ことで、

お互いに疲れにくくなる、となります。

 

従って「人の許容量には差があることを知ると疲れにくくなる」となります。

 

次回(9/15)は、「『○○ですね。』より『○○ですか?』を使うと疲れにくくなる」です。

 

○「このぐらい耐えなさい」「そのくらいで逃げ出したの?」という言葉の理不尽さについて私見

 

   当記事をここまで読んでくださった方には、

   「このぐらい耐えなさい」「そのくらいで逃げ出したの?」という言葉が、

   如何に理不尽な言葉であるかが、ご理解いただけるのではないかと考えます。

   「このぐらい」「そのぐらい」は正に、強制側にとっての「平均値」です。

   「平均値」は被強制側の許容量には無関係です。

   強制側は、被強制側の状態を感じる必要は無い、という世界像を選択しているため、

   自らの都合と目的に沿って、「平均値」を、被強制側に強制します。


   以上から、単純に「平均値」を絶対の基準値として使うことは、

   『誰にとっても不利益しかもたらさない』と私は考えます。


   最も「強制しない」という前提に立った上での「平均値」は必要です。

   私は「平均値」を「最初の基準」として用いることで、

    ・耐えられそうなら、1.2倍、1.5倍・・・

    ・耐えられそうでなければ、0.8倍、0.5倍・・・

   と云ったように適宜、倍率を変化させて各人の最大許容値の閾値を

   効率よく探ることができると考えます。

   仮の基準値を置かずに探るとした場合は、最弱から少しずつ刺激量を増やして

   いかなければ安全に最大許容量が探れません。


   そして、お互いの許容値を正確に認識することが

   複数人の人間関係でお互いに利益をもたらすために必要だ、と私は考えます。


以上