人に対する好き嫌いは、自分の世界像と一致するか否かの結果と考えると疲れにくくなる

こんにちは。平穏堂院長の田上俊和です。

本日の「疲れにくくなる暮らし方」は

「人に対する好き嫌いは、自分の世界像と一致するか否かの結果と考えると疲れにくくなる」です。

大前提:人は、ストレスを感じると、対抗するために、気力体力を消費し、その結果、疲れる。

小前提1:人は、仕組みがよく分からない現象にストレスを感じる。

     逆に、仕組みがよく分からない現象を、納得できるストーリーで説明されたとき、

     人は、その現象に感じていたストレスを消すことができる。

小前提2:人に対する好き嫌いは「よくわからない現象」の一つである。

     根本的な好き嫌いは「なんとなく」で決まり、「○○だから好き/嫌い」は後付けである。

 

小前提1と2から、人に対する好き嫌いの仕組みが「納得できるストーリー」で説明されると、

ストレスを感じないため、大前提より、疲れにくくなるといえます。

 

そこで、人に対する好き嫌いの仕組みを説明する「納得できるストーリー」として、

仮説「人に対する好き嫌いは、自分の世界像と一致するか否かによる」を立てました。

それが、読者のみなさんが納得できるものだった場合、

「人に対する好き嫌いは、自分の世界像と一致するか否かの結果と考えると疲れにくくなる」

となります。

 

以下、証明です。

1) 新たな大前提として、人は、自身の中に以下のa、b、cから成る

  「人生の在り方」(ライフスタイル)を複数、セットで持っている、とします。

 

  a) 自己概念(自分は○○である)

  b) 世界像(世の中の人々は××である)

  c) 自己理想(自分は□□でなければならない)

 

2) ここで、人に対する好き嫌いの感情に関わってくるのが b.世界像であり、

  それに一致するか否かで、敵味方の判定が行われます。

 

  <判定処理>

   ・人は、自分の世界像に一致すれば、自分の味方である=好きな人と感じる。

   ・逆に、自分の世界像から外れていれば、自分の敵である=嫌いな人と感じる。

 

3) 2)の「自分の世界像と一致するか否か」の判定は、意識上に上らず、自動的に行われます。

  なぜなら、敵味方の判定は、生き死にに関わる判定のため、意識していては

  間に合わない種類の判定だ、という設定が人間の仕組みとして備わっているから(※)です。

 

    ※現代の日常生活では、敵味方の判定が生き死にに関わる状況は、まずありません。

     では、なぜそんな設定が人間に未だに備えられているかといえば、

     過去、人間が常に生き死にを隣に置いていたときの名残りだと私は考えます。

 

4) 世界像と一致するか否かは、判定を行うその人自身の主観(知識・経験)によります。

  つまり「この人は○○に見える/であるに違いない」という思い込みにより左右されます。

  実際の対象者が、本当はどのような人であるか、は無関係です。

 

5) 判定の例を挙げ、証明を締めくくります。

 

  以下「私」とは、判定する人です。

  ・「世界は優しい(「私」に優しくなくてはいけない)」を持つ「私」が

     好きな人→「優しくしてくれ”そうな”人」

     嫌いな人→「厳しそうな人」

  ・「人々は常に向上心を持たなくてはいけない」を持つ「私」が

     好きな人→「向上心を持ってい”そうな”人」

     嫌いな人→「だらけてい”そうな”人」


以上で仮説「人に対する好き嫌いは、自分の世界像と一致するか否かによる」の証明とします。

 

次回(8/21)は、「型を利用すると疲れにくくなる」です。

 

○「○○がなければ良い人」が何故生じるのか

 

 いったん定まった好き嫌いの感情は定着することが多く、ひっくり返すのは困難です。

 なぜかというと、自己保存欲求から生じる「自分自身を正当化したい」という目的があるためです。

 その目的を達成するため、本当は第一印象と正反対の人だということがわかった後でも、

 「あの人はそんな人じゃない」「本当はいい人」という言い訳を手段として用い、

 自分の判定を正当化します。

 正当化を繰り返すたびに誤りは強化され、最終的にはその人の一部にのみ否定要素を押し込め

 「あの人は○○がなければ良い人」と変化します。

 つまり、○○があるから悪いのであって、その人を「良い人」であると判定した自分は悪くない、

 という図式で目的「自分を正当化する」が達成できることになります。

 

 

○好き嫌いと我慢について

 

 どうしても受け入れられない点が一点でもあるならば、他にどんなに受け入れられる点があっても、

 その人全体を受け入れられないのが道理ではないか、と私は考えます。

 我慢して受け入れてもストレスが溜まり、その結果疲れますから、「我慢して受け入れる」

 という選択を取らないほうが「疲れにくくなる暮らし方」だと私は考えます。

 もし、「我慢して受け入れる」という選択をとった場合は、

 「疲れる暮らし方」(=気力体力を常に消費する)を「自分自身で選んだ」、

 という自覚を持って暮らすと、予め覚悟ができますから、

 その選択に無自覚なときよりは「疲れにくくなる」と私は考えます。

 

○好き嫌いを変化させるにはどうするか

 

 自分の持つ世界像「世の中の人々は××であるべき」を、新たに選びなおすことで

 嫌いな人を受け入れられるように「人生の在り方」(ライフスタイル)を変えるという手法があります。

 例を挙げます。

 「世の中の人々は絶対に遅刻してはいけない。遅刻する奴は人にあらず」という世界像から

 「世の中の人々は別に遅刻してもいい。色々都合もあるだろうし」という世界像に選びなおす

 ことで、性懲りもなく遅刻を繰り返す友人を受け入れられるようになると思います。

 もっとも、致命的な実害がその遅刻によって生じなければ、という付帯条件が付きますが。

 

以上